「現代学」:めざすは、難しいけど、わかりやすい

 「地球温暖化」への警告が毎日メディアに登場します。
 COの削減が叫ばれています。

 では、「地球温暖化」とは何なんでしょうか。
 その何が問題なのでしょうか。
 COはなぜ削減する必要があるのでしょうか。

 本当に削減できているのでしょうか。
 もし削減できているとしたら、それにどんな意味があるのでしょうか。

 そうしたことを「考え」たことがありますか。

 Covid-19という感染症が猛威を振るいました。

 感染力が高い、死亡率が高い、と散々言われましたが、それは本当でしょうか。
 マスクやワクチンも、いつのまにか「常識」として押し付けられていました。

 それが「まちがい」だ、と言っているのではありません。

 それが本当に「正しい」かどうか、「考え」たことがありますか。
 より正確に言えば、「正しい」ということを「疑っ」たことがありますか。

 「正しい」かどうか「考える」=「疑う」ことは、「まちがい」だと決めつけることではありません。

 いわば、「正しさ」を保留することです。保留して、検証する。そのために、さまざまな知識を求め、情報を集める。
 その結果、やはり「正しい」ということもあるでしょうし、「まちがい」だということもあるでしょう。

 一番ありうるのは、「とりあえず『正しい』(あるいは『まちがっている』)」であって、その「とりあえず」の判断も常に反省・更新されなければなりません。

 私(大前=学びプロジェクト代表)は、予備校業界で20年以上「現代文」を教えてきました。

 「現代文」は、日本語によって書かれた「現代」についての「文」章です。
 「現代」とは何か、を問い考えた「文」章です。

 「現代学」は、そうした「現代」についての考察を紹介するとともに、「考える」ということを実践する(私だけでなく参加者の方も)講座です。
 こう書くと小難しく感じますが、具体的で身近な事例を使いますので、「難しいけど、わかりやすい」講義にしていこうと思っています。

 Amazonの一部のレヴューによると、私の本(『キーワード300』という大学入試用の用語集)は「偏向」しているらしい。
 が、もしそう見えるならそれは、世の中で「正しい」と決めつけられ疑われることもないことに対して、「正しくない」可能性を唱えるからです。それこそが大学入試に出る「現代文」の本質だからです。
 その意味では、もし「偏向」しているなら、それは私ではなく大学入試に出る文章の方でしょう。

 私は、しばしば「地球温暖化」について疑問を呈する発言をします。

 しかし、私は「地球温暖化」が間違っている、と単純に否定したことなどありません。
 何も疑うことなく「地球温暖化」を受け入れている姿勢自体を問題にしているのです。

 ところが、悲しいことに、それが「地球温暖化」否定と同一視されがちです。
 それはどうしてでしょう、、、ということすら、「現代学」の素材です(「地球温暖化」は、あくまでも、取り上げる具体例の一つにすぎません。)。